生徒指導と『学び合い』

 生徒を指導するとき、重要なポイントはたくさんあると思います。

 ○事実を客観的に認識する。

 ○何がいけなかったのか、何がダメなのかを明確にする。

 ○それが、なぜいけないのか、なぜダメなのかを明確にする。

 最近、他の先生が指導されている場面に出くわした際に気づいたことがあります。


 ① なぜいけないのか、なぜダメなのかを明確にする際に、「ルールだから」と言う。

 「ルールを守ることの価値」を見いだせていない生徒に、「ルールを守れ」と言って守るようになるでしょうか?


 ② 反省させるために、「反省しなさい」と言う。

 これは、無理ではないでしょうか?反省したか、していないかの判断はどこでするのでしょうか?仮にできたとしても、それは、生徒に対する先入観や既存のイメージで左右されるものだと思います。


 私が、生徒指導をする際に意識している点は2つ。

 基本的な状況把握、事象の客観的な判断をしたあと

 

 ① あなたの行動で「仲間」が悲しむことを認識させる。

 その後、なぜいけないのか、なぜダメなのかを明確にするために、「友達、仲間」のことを考えさせます。

 「あなたが、そんなことをしてクラスのみんなはどう感じるやろ?」

 「授業でかかわってくれている○○くんは、今のあなたを見てなんて言うやろ?」

 「友達、仲間を悲しませることになってないか?」

 「一人でできないことは、仲間を頼ればいいじゃないか」

 

 ② 性善説的な考えが基準

  生徒を指導する際、「この子は悪い子だ」という認識で指導して、どうして「指導」と言えるのでしょうか?

 「指導」とは、「進めべき道を指し示し、導くもの」であって、その可能性を子どもに見いだしていない者が、何と伝えようとしても指導にはならないと思います。この現象は、よく怒られる子に対する指導に顕著に現れると思います。「またか」という思いを感じたとき、その生徒が問題行動を起こすことは、「生徒本人に課題があり、教師にはない」という心情がはたらいているからにほかならないと思います。同じ生徒が、同様の指導をさせる場合、「教師である私が、その子の心を見とれていない。だから、その子の心を動かすことができていない。教師である自分が変わらなければならない」と考えています。家庭環境や生育歴などさまざまな背景をかかえた生徒ですが、基本的に「心はまわりの人の気持ちで変わる」と信じています。表現が間違っているかもしれませんが、「生まれながらに人を傷つけようとする人間はいない」と思っています。その子が、問題行動に至るまでにも、人の関わりがあったはずです。だったら、その子がまわりの仲間と共に幸せに生活することは、人との関わり方一つでできるはずです。

  「ダメなものはダメ」と伝えることも、ある成長段階では必要なことだと思います。しかし、中学生の時期では、全面的な否定は、その子自身を否定していることになります。


 生徒を否定的に捉えた指導を目にしたり、耳にしたりすると怒りを感じます。


 『学び合い』に基づく授業は、子どもの可能性を信じることができる教師にしかできないと思います。

 よく『学び合い』に抵抗を感じる先生には、性悪説的に捉えている方が多いように感じます。

 教師は生徒の可能性を引き出すことが仕事。叱ることではない。

 変ですかね??