「森を見て木を見ず」
「葉を見て木を見ず」
「土を見て木を見ず」
この言葉を、新生徒会役員に紹介しました。
朝の挨拶運動をみて感じたことがあったからです。
新役員の生徒たちは、「おはようございまーす」と大きな声を出しています。
近くにいた先生から、「声が小さい!」と指導されたのかもしれません。
しかし、私はこの挨拶が「無機質」にしか感じ取れなかったのです。
そこで、生徒会長に「だれに挨拶しているの?」と尋ねました。
「登校してくる人たちにです」
じゃあ、「なんで挨拶しているの?」と尋ねました。
「うんん…」
彼らは、「登校してくる生徒」=「森」しか見ていなかったのです。
「登校してくる生徒」には、元気にやる気に満ちて登校してくる人もいる。でも、やっとの思いで登校してくる人もいる。学校生活に不安を感じながら登校してくる人もいる。一人一人、登校してくるときの気持ちが違うはず。だから、一人一人の表情や動き=「木」を見ることが必要であり、「木」を見ようとすることで、挨拶の仕方(声の大きさやトーン、表情など)も変わるはずである。
この逆のこともあると思う。
顔見知りの友達が登校してきたとき、自分にとって嫌なことが、その人によって行われたことがあった場合、その一部分=「葉」だけをみてしまい、目を合わせなかったり、挨拶しなかったりするのではないかと思った。
彼の人間性すべて=「木」を見ることができていないのではないかと感じた。
挨拶をする意味を答えれない。
これは、「挨拶はするべきもの。できれば、大きな声で」という、「〇〇とは〇〇あるべき」という慣例=「土」で、「本質」=「木」を見ることができていないのだと思います。
これは、生徒だけでなく、教師にも言えることだと思います。
「集団」を見て「個人」を見ない。「森を見て木を見ず」
「生徒の一部分だけ」を見て、「人間性」を決めつける。「葉をみて木を見ず」
「根拠のない慣例」にならい、「多様性」を認めない。「土をみて木を見ず」
私は、「森をみて木を見る」⇔「木を見て森を見る」
必要に応じて、「一枚一枚の葉を大切にする」
「木」や「森」を生き生きとするために、「土壌を耕す」ことを心がけています。