似ている言葉に、教え合いや『』のない学び合いなどがあります。それ以外にも、ペア学習やジグソー学習、自由進度学習など、今の教育界にはさまざまな言葉が溢れています。しかし、そのほとんどが「学習形態」「学習方法」など手立てに焦点が当てられています。

 これらと一線を画している点は、『学び合い』は、「教育観」であるということです。

 残念なことに、「生徒が席を立ち自由に動き回る学習」「教師が教えない学習」といった手法にだけ目に留まり、大事な教育観を押さえていないがために、学力低下、集団の崩壊が起き、「やっぱり『学び合い』はだめだ」という印象を与えていることも事実です。

 しかし、基本的な概念や目指す姿を正しく知ることで、学力保障だけでなく、学級の組織力の向上、それと、どの先生方も保護者の方も一番に願われていること、「子どもたちが笑顔で、一生、幸せに生きてゆく」力を育むことができるのです。

 教育基本法第1条には、教育の目的が明記されています。その一文に、「教育は、人格の完成を目指し、(以下省略)」とあります。「人格の完成」とはなにか?定期テストでいい点数をとること?通知表で5段階評価で5をとること?そうでしょうか?もちろん、テストや試験で数値化される認知能力を高めることは、現段階の入試システムでは大事な要素です。しかし、認知能力だけを高めることが「人格の完成」を達成することになるのでしょうか?私は、「人格の完成」という言葉を「理想の大人になること」だと解釈しています。そう捉えると、認知能力だけでなく、粘り強さやコミュニケーション力、決断力といった非認知能力(点数化できない能力)も大切にされるべきではないかと思うのです。

 非認知能力を高めるには、まず、多様な人と関わり、同じ目標に向かって協力していくことが必要です。つまり、「学校」という場が、その役割を担う必要があるのです。【学校観】意見が合わない。価値観が合わない。だから、「関わるな」は、その子どもたちに損をさせることです。意見が合わないからこそ、価値観が合わないからこそ、話し合いを繰り返し、妥協点を生み出す。意見を言える人だけでなく、その場(学校では教室や学年)の全員がハッピーになれることを、全員で生み出していくのです。大人は必要最小限の関わりしかせずに問題を解決させるのです。

 不可能なことのように思われるかもしれません。「認知能力を同じだけ高めろ」は不可能かもしれません。しかし、「全員の心を動かす」ことはできます。2008年から実践してきてこれだけは言えます。

 「できます!」

 そのためには、次のことがまず必要です。

 「子どもたちは有能である。時に、大人以上に。」【子ども観】と子どもに関わる大人が信じ通すことです。裏切られることもあります。子どもですから。でも、徹底的に子どもたちを信じるのです。「君たちならできる。不可能を可能にできる。先生にはできないけど、君たちにならできる」です。

 今、個別最適化の学習と言われています。意地悪な意見かもしれませんが、1コマ50分の授業を想定します。まず、授業の始めに「めあて」を5分で説明します。授業の最後に5分を使って「まとめ」をするとします。学習時間は40分です。40名学級だったら、1人当たり1分しか、先生は個別に生徒に関わることはできません。その教科が得意な子にも不得意な子にも、公平・平等に時間を使うとそうなります。これで、全生徒の認知能力だけでなく、非認知能力を高めることができるでしょうか?無理です。

 ここで、過去の実話を紹介します。中学1年生でAくんという昭和のヤンキーに憧れている、いわゆる荒れた生徒がいました。授業を妨害したり、法律に触れるようなことはしません。そのかわり、1時間目から6時間目まで、体育以外はずっと寝ていました。無理やり起こそうとする教師に対しては、反抗的な態度をとり、何度も、別室での指導もありました。その生徒が2年生になるとき、私が担任することになりました。「さて、どうしたものか?」力で行けば、反発する。とにかく、彼を信じで、やんわりと声掛けをする程度しか、私にはできませんでした。一方で、理科の授業は『学び合い』に基づく授業を行っています。子どもたちには、(上から目線のように聞こえますが)「誰一人見捨てるな」「全員で、目標を達成するんだ」と言い聞かせています。「そのためなら、なんでもしていい」と言っているので、子どもたちは、席を立ち、寝ているAくんのところに行きます。「いっしょにやろ」「起きてよ」数名の仲間たちが声をかけますが、微妙な反応しかしません。でも、かれらは毎時間、Aくんに声をかけ続けました。定期テスト。授業中、目標達成のためならなんでもやってかまわないと言っているが、「定期テストで30点未満を1人も出すな」とも言っています。ご想像の通り、A君は、8点、12点くらいしか採れません。半ば、周囲の仲間たちも反応のないAくんから距離を置くようになっていきました。しかし、Bさんだけは、ずっとそばから離れませんでした。机を2つ並べ、何度も声をかけ、起きないときは、Aくんのプリントを埋めてファイルに綴じたりもしていました。その関係は、ずっと続きました。そして、3年生。AくんとBさんは継続して私が担任するようになりました。そして迎えた、3年2学期期末考査。Aくんは出席番号が最後だったこともあり、私がAくんの名前を呼ぶとみんなが注目しました。「よくがんばったな!」と声をかけ、答案をAくんに渡しました。Aくんは、すこし笑ったように感じました。すると、Bさんが教卓まで走ってやってきて、Aくんに「何点だった?」と聞くと、Aくんは黙ってBさんに答案を見せました。その瞬間、Bさんは床に泣き崩れてしましました。一瞬、教室の空気が止まりました。Aくんは、83点だったのです。クラス全員が拍手。「やればできるやん」「すげーよ」。Bさんは、本当にうれしかったんだと思います。2年間、見捨てずに関わり続けて、結果を出したのです。もし、Bさんや声掛けを行っていた仲間たちがAくんのまわりにいなかったら…。教師である私一人で、定期考査一桁代の子を83点まで伸ばすことはできただろうか。たぶん、できなかったと思う。しかも、AくんとBさんを中心に強い絆が教室で生まれていました。子どもたちはすごいんです。一理科の教師、一担任よりも、はるかにすごい結果を出すことができるんです。

 では、教師である私は何をしていたか?ということになります。

 「教師の仕事は、目標の設定・評価・環境の整備で、教授(子どもたちからすると学習)は子どもに任せるべきである。」【授業観】という視点に立って授業を行っています。

 まずは、「目標の設定」です。いわゆる、「めあて」です。しかし、今日、この時間、何を学ぶのか?何ができればよいのか?を具体的に伝えます。私の場合、「全員が、〇〇を通して△△を◇◇できる」とすることが多いです。「〇〇を考えよう!」は使いません。「先生、考えたけど、わかりませんでした!」という子どもをなくすためです(まぁ、滅多にいないと思いますが)。それと、生徒自身が目標(めあて)を達成できたか、自己評価または他者評価できることが大事です。最初は、目標達成度を子どもに任せることが不安で、「最後に先生チェックするね」としたこともありますが、授業後半には「先生チェック」の長蛇の列ができます。もったいないです。なので、現状、「授業内容を2名以上のなかまに説明して、OK!をもらいなさい」としています。あと、間違った考えや答えが拡散される場合があります。それを防ぐために、模範解答を1枚、黒板に貼っていて、子どもたちはいつでも見れるようにしています。「それでは、丸写しをするじゃないですか?」というご意見もあるかと思います。そうなんです。初めのころはそのような子どもも発生します。ですが、全員に問いかけてください。「丸写しして満足している人がいるけど力がつくのかな?」「そうゆう人をみんなは知ってるよね。で、何も言わないの?」「それは、見捨てたことになるんじゃないの?」と。見ていた子どもに指導をするのではなく、まわりの子どもたちに問いかけるのです。私の授業では、最初に模範解答を見ることをOKにしています。なぜならば、理科が苦手で全くわからない子が、じっと5分、10分と何もプリントにも書けず、友達にも質問できない時間をなくすためです。まずは、答えを知る。次に、なぜ、その答えになるのかを友達に教えてもらう。理解する。の順番です。理科教育では、課題の確認→仮説→実験や観察方法の設定→記録→考察→まとめとなるのですが、この流れが逆にわかりにくい子どもも一定数います。逆の矢印の方が効率的にわかりやすい子どもは先に模範解答を見た方がいい場合もあります。

 話が長くなってしまいましたが、次は「評価」です。これは、通常?の授業と同じ方法で行っています。ただ、毎回の授業で、「全員が目標を達成する」を掲げているので、「全員OK」ということが多くあります。ただ、課題(めあて)の設定だけでは、漠然とする場合があるので、学習プリントに、評価A、評価Bの具体的な評価規準と基準を明確に書いています。子どもたちはこれを見て、自分が、どのくらいの評価にいるのかがわかるようにしています。これまた意地悪な話ですが、よく研究発表会の自評で、「達成率は70%でした。」などとおっしゃる先生も多いと思います。謙遜から低く評価されているのかもしれませんが、私は、「残りの30%の子どもはどうなっちゃうの?」「残りの30%の子どもたちにとってこの1時間はどんな時間だったんだろう」と思います。だから、「毎時間、達成率100%を達成を追求」していかなければならないと思うのです。

 次は、「環境の整備」です。子どもたちは学習中、あらゆるところで「?」をもちます。教師が、事前に予測することもできますが、子どもたちの「?」は、教師でも気づかないことが多いのです。特に、専門分野では、先生の「当たり前」は、子どもたちの「当たり前」と乖離しています。実際にあった話です。1年生の理科の授業中、「ひとさまに」「ひとさまに」と子どもたちが連呼しています。理科の授業です。「ひとさまに」なんて言葉は今まで私は聞いたことがありませんでした。近寄ってみると…。ある漢字を指さしていました。それが、「一様に」でした。子どもたちは「一様に」を「ひとさまに」と呼んでいるのです。もちろん、意味も分かりません。そこで、登場するのが国語辞典です。教室には自由に使える国語辞典や資料集などを置いています。国語辞典で「ひとさまに」を検索します。出てきません。当たり前です。読み方が違うのですから…。そこで、子どもたちの一人が「『いちように』だよ。」と教えました。「へぇー。で、どんな意味?」「…」今度は、読み方がわかったものの意味が分からないのです。この単元は、水溶液の単元でした。溶けている物質が「一様に」広がって…。もし、私が前で一斉授業をしていたら、普通に「一様に」と発して説明していたでしょう。でも、私の必死の説明に応えようと、わからないけど、わかったふりをする子どもたちが大量発生していたことと思います。今では、「一人1台タブレット」なので、わからないことをすぐに調べることができます。しかし、情報の共有は、「会話」が一番早いし、理解しやすいようです。

 このことからもわかるように、「教授(子どもたちからしたら学習)は、子どもたちに任せる」ことが、一番、わかりやすいし、勇気をもらえるし、つながりもできるし、喜びをともに分かち合うこともできるのです。

 

 ここで、先生方に質問です。「なぜ、教師になろうと思ったのですか?」

 私は、中学時代の恩師の影響です。当時の中学校は荒れていました。しかし、担任の先生は、荒れている子にも丁寧に話を聞き、寄り添い続けました。部活動の顧問の先生には、努力は実る。限界は自分がつくるものだ。仲間を裏切るな。仲間のために全力を尽くせ。と教わりました。このことを、次の世代にも教えていきたい。伝えたいと思い、当時得意だった理科の教師になりました。私にとって、理科の内容を教えることよりも、人としての生き方を伝えたかったと言っても過言ではありません。

 だから、自分がどんなにすばらしい教授ができたとしても、真の目的は達成できません。

 

 18世紀の産業革命以降、人間は機械の一部となってきました。そのため、機会がバージョンアップしていくたびに、人間も新しい知識や技能を身につける必要がありました。その連鎖が、約300年間、この関係は続いてきました。しかし、今、この300年間続いた連鎖に大きな変化が起きています。AIの登場です。機械を操作してきた知識や技能、経験を積み重ねてきた人間のかわりをいとも簡単に短時間で答えを導きます。また、発展途上とはいえ、今後の進化を考えるととてつもない速さで社会は変化します。その真っただ中で、人生の多くを過ごす今の子どもたちに、「今の教師」ができることはなにか。

 もう、ここまで読まれたら答えは出ているのではないでしょうか?

 いっしょにこれからの教育、教師の在り方を考えていきませんか?

 

 2024年2月20日